夏がくーれば思い出す
- Genki
- 2025年8月29日
- 読了時間: 4分
更新日:2025年8月31日

日がだいぶ短くなりました。
季節はちょうどこんな夏の終盤でした。赤いホンダXL250にテントや荷物を振分けて山積み、さらに大型のリュックを背負って、東府中のアパートを陽の昇る前に出発。未知の北の国を目指してスタート
上野の美術館でバイトして貯めた全財産、13万円(笑)を荷物に分散し1週間位で戻る予定でした。
江差で海水浴を楽しみ、翌日はなんと北海道では珍しい台風直撃、一日中テントの水を外にかい出した。破天荒の連続だったが、もう一日もう一日と予定を繰り上げて、気づいたら9月も半ば過ぎ、北鎮岳は錦の紅葉に包まれ、時折みぞれも降る季節に移り、資金も底をつき始め帰りのガソリン代もおぼつかない。しかし利尻山、雌阿寒岳とくれば羅臼岳に登らない選択肢はない。
最果て知床のウトロ漁港を見晴らす丘にあるキャンプ場。そこは墓地の隣でシーズンが終わり人の気配もなく寂しさマックス、怖々食べられそうなキノコを採って空腹をしのいだ。テント越しに見えるはるかな羅臼岳になんとかして登りたいと思うのだが、毎日山は雲に覆われ素人ライダーを寄せ付けない。晴れ間を待つ間、令和4年遊覧船事故でたくさんの人が亡くなった岬巡りの遊覧船に乗り、ススキの原が綺麗な乙女の涙や人の気配もないカムイワッカの湯滝で露天風呂を連日のように愉しんだ。その前年ドイツの青年が二人入山したまま見つからず、ヒグマにやられたのだろうと警告が出ていた。
今回この話に触れたのは先ごろこの山で東京の若者が熊に襲われ亡くなられたニュースに触れたからだ。
46年前の僕は23歳。同じような状況を思うと複雑な気持ちになる。大変ひんしゅくを買うだろうが、当時の僕は恐怖や不安や迷惑を押しのけて頂上を目指したい誘惑に駆られてしまっていた。まだ横断道路も開通される前で世界遺産にもなっていないから観光客も少なく、携帯電話もなく未舗装の砂利道が幅を利かせ、素朴な旅を体験できる時代だった。なんて無謀な!と言われても、僕には反論ができない。世界の名峰を命がけで登る人たちとは比べ物にならないが、小さいながらもその魅惑には勝てず、ひたすらチャンスばかりを待ち望んでいた。 朝日を背に雲間から頂上が望める待ちに待ったその日がおとずれ、岩尾別温泉の登山口までバイクを飛ばした。空き地にバイクを停めるとワクワクと不安が入り混じる。 羅臼平まで辿り着いた頃からにわかにガスが発ち込め右も左も視界が利かなくなった。「やばいかも!」湿ったガスは体温を奪い不安をさらに増幅させる。 単独行動は気楽なかわりに危険と不安も背中合わせだ。しばらくすると真っ白な世界の向こうから人の声がかすかに漂ってくる。不思議なもので近くに人がいるんだと思うと俄然希望が湧いてくる。声する方に這うようにして進んだ。まだ助かったわけではないが嬉しさがこみ上げてくる。
麓のユースホステル宿泊客4~5人だったか、歓声に迎えられ仲間入り。それぞれの荷物の中から燃えそうなものを集め、暖を取ろうとするが風も強く周りの全てが湿気て貴重なマッチも役に立たず火は熾らない。知らない者同士が肩を組み小さな円陣を作って揺すり合い元気を熾す。
どの位そこに心細く留まっていたか判らないが、一瞬雲が流れ青空が頭上に現れた。今こそ下りるか、目の前の頂上に向かうか迷ったあげく、山の素人たちは怖いもの知らずだった。わずかな晴れ間だったが、眼下に国後を臨み、隣国があまりに近いのに驚かされた。こちらから近いと感じるという事は、向こうからも自分の物のように思われているのだろう。
達成感も束の間、雲の湧き始めた羅臼を急ぎ後にした。彼らとはその時限り、記念撮影もアドレス交換もなく、思い出話をしたいと思っても今どこで、どんな生活をしているのだろう。お~い、あの時の僕は、今ここにいるよ。
知床での目的を達成し、次は野付半島 尾岱沼に向かう。臨時バイトを探さないと、ガス欠で東京には戻れない。北国の冬はもうすぐそこに迫っていました。











































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